光はキリスト
昨年のクリスマスのころ、賛美を作った。
「光はキリスト」
この世の闇を照らす光が 神の愛によって灯された日
富もない名誉もないただ主の栄光あらわすために
その光は輝いてる とこしえまでも・・・・・(後略)
アドベント(待降節)第2主日の礼拝メッセージ(ジョン・ビッグス牧師)は
まさに「クリスマスの光」がテーマだった。
(イザヤ8〜9章から)
預言者イザヤが書いた「イザヤ書」は、旧約聖書の中でも好きだという人が多い。
彼の時代は、アッシリアがイスラエルを支配していた時代で、
イスラエルの人々は、抑圧の中で自由を失い、
まさに闇のような暗い人生を生きていたといえる。
しかし、イザヤは、その700年もあとに生まれる「光」を予言していたのだからすごい。
そう、その光こそキリスト、イエスである。
現在の私たちは、そのような他国の支配の中を生きているのではない。
(世界中にはそういう国がたくさんあるが・・・)
平和ボケと言われる日本での「闇」は、むしろ個人個人の心の闇ではないだろうか。
自分をがんじがらめにする「悲しみ」「傷」「手放せない怒り」「罪による罪悪感」・・・
そのような闇の中を歩む私たちの中に、「光」がさす。
それを約束されたら、どれほど喜びがあるだろうか?
自分をがんじがらめにする抑圧からの自由。
それが約束されていることを、イザヤ書から受け取ることができる。
さらに、私たちは
神との和解によって、神と自分の間に平和があることを確信すると
心の内側に平和がやってくる。
イザヤ書にはイエスは「平和の君」と書かれている。
そして私たちは、内側の平和によって、
さらに「平和を作り出すもの」に変えられていく。
キリストの平和はこうやって世界に広がっていくのだろう。
イザヤ書にはさらに「ダビデの王座についてその王国を治め」と書かれている。
イエス様が、この世を治めるかたであることが、生まれる700年前に予言されていることのすごさ!!!
そして、その約束が、今も生き続けることのすごさ!!!
「私」という個人レベルで、「私を治めるかた」であることはほんとによくわかる。
愛すること、赦すこと、自分を変えること・・・・
それらすべて自分の力ではできないことを、私は重々感じさせられてきた。
イエス様はかならずよいものをくださるから、100%の信頼でついていくことができるかたであることも、よくわかる。
いつかイエス様がもう一度来られるときには
この統治が、全世界規模で、大きなスケールで成就していくのだと聖書は約束する。
このことを実際に自分の目で見ることができるかどうかはわからない。
でも、必ずそうなるってわかる。
だって、「私」という小さい規模では、そのような自由、平和、統治の約束がすでにあらわされているからである。
クリスマスは、いろんなイベントがある。
お祭りさわぎもある。
商店街の福引もある。(めりーは米とビールを当てました!!!)
カップルのロマンチックな季節でもある。
家族の大事なイベントでもある。
だけど、イエス様がこの世に来られたことの意味を
じっとかみ締める季節でもあるんだよ。
闇の中を歩んでいた民が大きな輝く光を見た・・・・
光は、自由と平和をもたらし、私をそして世界を治めるという約束のしるし。
光はキリスト。
礼拝メッセージを味わい、かみしめながら、自分自身が負っているくびきをはずし、
イエス様のくびきを負うものに変えられたいと強く思った。
「光はキリスト」
この世の闇を照らす光が 神の愛によって灯された日
富もない名誉もないただ主の栄光あらわすために
その光は輝いてる とこしえまでも・・・・・(後略)
アドベント(待降節)第2主日の礼拝メッセージ(ジョン・ビッグス牧師)は
まさに「クリスマスの光」がテーマだった。
(イザヤ8〜9章から)
預言者イザヤが書いた「イザヤ書」は、旧約聖書の中でも好きだという人が多い。
彼の時代は、アッシリアがイスラエルを支配していた時代で、
イスラエルの人々は、抑圧の中で自由を失い、
まさに闇のような暗い人生を生きていたといえる。
しかし、イザヤは、その700年もあとに生まれる「光」を予言していたのだからすごい。
そう、その光こそキリスト、イエスである。
現在の私たちは、そのような他国の支配の中を生きているのではない。
(世界中にはそういう国がたくさんあるが・・・)
平和ボケと言われる日本での「闇」は、むしろ個人個人の心の闇ではないだろうか。
自分をがんじがらめにする「悲しみ」「傷」「手放せない怒り」「罪による罪悪感」・・・
そのような闇の中を歩む私たちの中に、「光」がさす。
それを約束されたら、どれほど喜びがあるだろうか?
自分をがんじがらめにする抑圧からの自由。
それが約束されていることを、イザヤ書から受け取ることができる。
さらに、私たちは
神との和解によって、神と自分の間に平和があることを確信すると
心の内側に平和がやってくる。
イザヤ書にはイエスは「平和の君」と書かれている。
そして私たちは、内側の平和によって、
さらに「平和を作り出すもの」に変えられていく。
キリストの平和はこうやって世界に広がっていくのだろう。
イザヤ書にはさらに「ダビデの王座についてその王国を治め」と書かれている。
イエス様が、この世を治めるかたであることが、生まれる700年前に予言されていることのすごさ!!!
そして、その約束が、今も生き続けることのすごさ!!!
「私」という個人レベルで、「私を治めるかた」であることはほんとによくわかる。
愛すること、赦すこと、自分を変えること・・・・
それらすべて自分の力ではできないことを、私は重々感じさせられてきた。
イエス様はかならずよいものをくださるから、100%の信頼でついていくことができるかたであることも、よくわかる。
いつかイエス様がもう一度来られるときには
この統治が、全世界規模で、大きなスケールで成就していくのだと聖書は約束する。
このことを実際に自分の目で見ることができるかどうかはわからない。
でも、必ずそうなるってわかる。
だって、「私」という小さい規模では、そのような自由、平和、統治の約束がすでにあらわされているからである。
クリスマスは、いろんなイベントがある。
お祭りさわぎもある。
商店街の福引もある。(めりーは米とビールを当てました!!!)
カップルのロマンチックな季節でもある。
家族の大事なイベントでもある。
だけど、イエス様がこの世に来られたことの意味を
じっとかみ締める季節でもあるんだよ。
闇の中を歩んでいた民が大きな輝く光を見た・・・・
光は、自由と平和をもたらし、私をそして世界を治めるという約束のしるし。
光はキリスト。
礼拝メッセージを味わい、かみしめながら、自分自身が負っているくびきをはずし、
イエス様のくびきを負うものに変えられたいと強く思った。



























